
廖化とは何者か?
廖化(りょうか、生没年不詳)は、中国三国時代の蜀漢の武将であり、主に劉備・諸葛亮・姜維に仕えた人物である。彼の名は『三国志』正史や『三国志演義』にも登場し、特に演義では「老当益壮」(年老いてますます盛ん)という言葉で知られる。若き頃は関羽に仕えていたが、関羽の死後は蜀の将軍として活躍し、最終的には姜維の北伐にも参加した。彼の生涯をいくつかのエピソードを交えながら詳しく紹介しよう。
関羽配下としての廖化
廖化はもともと関羽の部下であり、荊州において関羽の側近を務めていた。しかし、西暦219年、関羽が魏の曹仁を襲撃し、樊城を包囲した際、孫呉の呂蒙が荊州を急襲した。関羽は魏と呉の挟み撃ちに遭い、ついには麦城に追い詰められた。このとき、廖化は関羽と共に戦ったが、敗戦が濃厚となると、関羽の命を受けて救援を求めるために脱出した。
この時の廖化の行動には二つの説がある。一つは、関羽の命を受けて蜀に救援を求めに行ったというものであり、もう一つは、関羽が戦死した後に捕らえられ、孫呉に仕えたが脱走して蜀へ向かったというものである。いずれにせよ、彼は蜀へ戻り、劉備に仕えることとなった。
夷陵の戦いでの活躍
関羽の死後、劉備は荊州の奪還と関羽の復讐のために孫呉へ出兵し、いわゆる「夷陵の戦い」(222年)が勃発する。この戦いで廖化は蜀軍の一員として従軍したとされるが、詳細な活躍は記録に残っていない。
劉備軍は当初、優勢に戦いを進めたものの、陸遜の火計によって大敗を喫し、撤退を余儀なくされた。劉備は白帝城へ逃れ、その後、病に倒れて死去する。廖化はこの戦いを生き延び、劉備亡き後は、劉禅に仕えることとなった。
諸葛亮の北伐への参加
劉備の死後、蜀の実権は丞相・諸葛亮が握ることになる。諸葛亮は蜀の国力を立て直し、魏に対する北伐を計画した。廖化もこの北伐に参加し、蜀軍の一員として幾度もの戦いに挑んだ。
第一次北伐(228年)陳倉の戦い
諸葛亮は第一次北伐で魏の祁山を攻め、魏の大将・曹真と対峙した。蜀軍は魏軍を撃破し、一時的に優勢となるが、魏の援軍として司馬懿が到着し、戦況が変わった。諸葛亮は撤退を決断し、その後、陳倉城(現在の陝西省宝鶏市)を攻撃するも、魏の将軍・郝昭(かくしょう)の堅守によって失敗した。
この戦いで廖化の具体的な活躍は伝えられていないが、彼は蜀軍の将として従軍し、諸葛亮の指揮のもとで戦っていたことは確かである。
第四次北伐(231年)祁山の戦い
この戦いでは、諸葛亮が自らの兵糧を運ぶために、木牛流馬(からくり仕掛けの運搬具)を開発し、長期間の作戦を可能にしようとした。廖化はこの戦いに参加し、魏の司馬懿軍と交戦したが、結局、蜀軍は兵糧不足のため撤退を余儀なくされた。
諸葛亮の死後、姜維と共に奮戦
234年、諸葛亮が五丈原で病死すると、蜀の軍事指導者は徐々に姜維へと移っていった。姜維は諸葛亮の遺志を継ぎ、北伐を繰り返したが、蜀の国力は次第に疲弊していった。
廖化の名言「老いてますます盛ん」
姜維の北伐において、廖化は高齢ながらも第一線で活躍し、戦場を駆け巡った。そのため『三国志演義』では「老当益壮」(年を取ってもなお壮健である)という言葉が彼に当てはめられ、忠義の象徴として語られるようになった。
263年 魏の蜀侵攻戦(蜀滅亡)
魏の大将軍・鄧艾が蜀へ侵攻した際、廖化は防衛戦に参加した。しかし、鄧艾が奇襲を仕掛けて成都へ進軍すると、劉禅は降伏を決意し、蜀は滅亡した。
廖化の最期
蜀が滅亡した後の廖化の動向については、史書には詳しく記録が残されていない。しかし、彼は姜維と共に魏に対する抵抗を試みた可能性があり、または成都で劉禅の降伏を見届けた後に生涯を閉じたと考えられる。
『三国志演義』では、彼の死に関する記述はなく、あくまで忠義に生きた老将軍として描かれている。
まとめ
廖化は関羽の配下として戦い、その後、諸葛亮や姜維に仕えて北伐に参加した。彼の最大の特徴は、高齢になっても戦場で活躍し続けたことであり、「老当益壮」という言葉の由来となった。
また、蜀の滅亡の際にも戦い続ける姿勢を見せ、最後まで忠義を貫いた武将であった。彼の生涯は、蜀漢の歴史そのものを体現しているといえるだろう。
コメント