
糜竺――劉備を支えた豪商の生涯
三国志の時代、劉備の側近として活躍した糜竺(びじく)は、単なる臣下ではなく、財力と人脈を駆使して主君を支えた存在だった。彼は戦場で武功を立てる武将ではなかったが、その資金力と政治的手腕によって、劉備が勢力を拡大する上で重要な役割を果たした。本稿では、糜竺の具体的な活躍を戦や歴史的出来事と絡めながら詳しく述べる。
1. 糜竺の出自と劉備との関係
糜竺は徐州の豪商の出身であり、その弟には同じく劉備に仕えた糜芳(びほう)がいた。彼らの家系は莫大な財産を持ち、地域社会において強い影響力を持っていた。糜竺は幼い頃から商才に優れ、徐州の経済界で大きな成功を収めていた。
彼が劉備と関わるようになったのは、劉備が徐州を治めるようになった時期である。もともと徐州は陶謙(とうけん)が治めていたが、曹操の父である曹嵩(そうすう)がこの地で殺害される事件が発生し、その責任を問われる形で曹操が徐州を攻めることとなった。これにより陶謙は劉備に徐州を託し、その後まもなく病没した。
劉備が徐州を手にすると、糜竺はその財力を活かして彼を支援することを決意し、莫大な資産を提供した。このとき、彼の妹を劉備に嫁がせ、義兄弟のような関係を築いたことも注目すべき点である。この婚姻によって糜竺は単なる家臣ではなく、劉備の一族に連なる重要な立場を得た。
2. 徐州での戦いと糜竺の役割
劉備が徐州を治めたものの、その地位は安定したものではなかった。まず、かつて徐州を狙っていた呂布(りょふ)がこの地を奪い取るという事件が発生する。呂布はもともと董卓(とうたく)の配下であったが、幾度となく主君を裏切りながら生き延びてきた猛将である。彼は劉備を信用させた後、突然裏切り、徐州を掌握した。
この際、劉備はやむを得ず小沛(しょうはい)へと退いたが、この時も糜竺は財産を投じて劉備の軍勢を支えた。呂布の支配下で徐州の政治は混乱し、最終的に曹操と袁術(えんじゅつ)との戦いに巻き込まれたことで滅亡へと向かう。この混乱を経て劉備は再び徐州を奪還するものの、今度は曹操によって駆逐されることとなった。
糜竺はこうした混乱の中でも劉備を支援し続けたが、劉備が曹操のもとへ身を寄せることを決断した際には、その道に疑問を抱いていたと言われる。しかし、主君の決断には従い、彼と共に行動し続けた。
3. 劉備の荊州進出と糜竺の貢献
劉備が曹操の庇護下から脱し、袁紹(えんしょう)のもとへ向かった後、さらに荊州の劉表(りゅうひょう)のもとへ身を寄せることになった。この時期、劉備の軍勢は苦しい状況が続いていたが、糜竺は経済的な支援を惜しまなかった。
赤壁の戦い(せきへきのたたかい)において劉備が孫権(そんけん)と手を組み、曹操と戦う流れになると、糜竺の財力は再び重要な意味を持った。劉備軍は十分な兵糧や装備を持たない状態だったため、糜竺の財力が軍の維持に大いに貢献した。
赤壁の戦いの後、劉備は荊州の南部を掌握し、ここを足がかりにして勢力を拡大していった。この時期、糜竺は劉備の財政を管理する重要な役職に就き、兵站の確保に尽力した。
4. 益州攻略と糜竺の役割
赤壁の戦いの後、劉備は荊州に基盤を築いたが、真に強大な勢力を持つためには、さらに豊かな土地を支配する必要があった。そこで目をつけたのが、益州(現在の四川省一帯)である。この地は当時、劉璋(りゅうしょう)が統治していたが、内政においては不安定な部分が多く、外敵からの脅威も受けていた。
劉備は当初、友好的な形で益州に進出したが、最終的には劉璋と対立し、戦いへと発展した。この益州攻略においても、糜竺の財力は重要な要素だった。軍を維持し、戦に必要な物資を確保するため、彼は持てる資産を提供した。
また、益州の攻略後、劉備がこの地の統治を始めると、糜竺は引き続き財政を担当する役職に就いた。彼は劉備の政治を支え、益州の経済基盤を整えることで、新たな国家の形成に貢献した。
5. 晩年とその後
劉備が益州を掌握した後、漢中王(かんちゅうおう)を称するようになり、さらに魏・呉との戦いへと進んでいった。しかし、糜竺は戦乱の中で第一線に立つことはなく、主に財政や内政の分野で活躍し続けた。
その後、関羽(かんう)が荊州を失い、さらに劉備が夷陵の戦い(いりょうのたたかい)で大敗を喫すると、蜀の勢力は大きく衰退した。この頃、糜竺はすでに高齢となっており、戦の行方を見届けることなく静かに世を去ったと言われる。
彼の死後、糜芳は関羽を裏切ったことで非難を浴び、蜀の歴史においては負の評価を受けることとなった。しかし、糜竺自身は生涯を通じて劉備を支え続け、その忠誠心と財政的な貢献により、蜀の成立に重要な役割を果たしたのである。
まとめ
糜竺は、戦場で活躍する武将ではなかったものの、財力と人脈を駆使して劉備を支えた重要な人物だった。彼がいなければ、劉備が天下に名を轟かせることはなかったかもしれない。その存在こそが、劉備の成功を陰で支えた「影の功労者」と言えるだろう。
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