
黄皓――蜀漢を衰退に導いた宦官
はじめに
黄皓(こうこう)は、三国時代の蜀漢に仕えた宦官であり、劉禅(りゅうぜん)の時代に宮廷内で大きな権力を握った人物である。彼は戦場での活躍こそなかったものの、宮廷内での陰謀や専横によって蜀の政治を腐敗させ、最終的に国の滅亡を早める原因となったといわれる。本稿では、黄皓がどのようにして権力を握り、どのような悪影響を及ぼしたのかについて、具体的なエピソードを交えながら解説する。
1. 黄皓の台頭――劉禅の寵愛を受ける
黄皓が歴史に登場するのは、蜀漢の第二代皇帝・劉禅の時代である。劉禅は父・劉備の跡を継いで皇帝となったが、政治の才覚に乏しく、宦官や側近に依存する傾向があった。黄皓はそのような劉禅に取り入り、次第に宮廷内での地位を高めていった。
とくに、諸葛亮(しょかつりょう)亡き後の蜀漢では、権力の空白が生じていた。姜維(きょうい)や董允(とういん)といった忠臣たちは、なんとか政治のバランスを保とうと努力したが、黄皓は巧みに劉禅を操り、自らの権勢を拡大した。
2. 忠臣たちとの対立――姜維と董允
蜀漢には、宦官の専横を防ぐために働いた忠臣たちもいた。その代表格が董允である。
(1)董允の抵抗
董允は、諸葛亮の死後、劉禅に仕えて政務を執った人物であり、黄皓の専横を防ぐために奮闘した。しかし、劉禅は黄皓を非常に寵愛し、彼の意見を重視するようになっていた。
董允は、黄皓が権力を振るうことを厳しく批判し、何度も劉禅に諫言した。例えば、あるとき黄皓が高官の人事に介入しようとした際、董允は断固として反対し、「宦官が国政に関与することは、国を滅ぼす道である」と警告した。しかし、劉禅はこの忠言を聞き入れず、むしろ黄皓を擁護するようになっていった。
董允が存命中は、黄皓の影響力は一定の範囲に留まっていたが、彼が亡くなると状況は一変する。黄皓はますます増長し、宮廷内での専横を強めた。
(2)姜維の遠征と黄皓の妨害
蜀漢の後期において、最も重要な軍事指導者は姜維だった。彼は諸葛亮の後継者として北伐を続け、魏への攻勢を仕掛けていた。しかし、黄皓はこの戦争政策を支持せず、むしろ妨害することに終始した。
あるとき、姜維は魏の防衛線を突破し、大規模な攻勢を計画していた。しかし、黄皓は戦争継続に反対し、劉禅に「姜維の遠征は国庫を圧迫し、民を疲弊させる」と進言した。さらに、魏の間諜と密通し、戦況を不利に導くような策謀を巡らせたともいわれている。
この結果、姜維の軍事行動はたびたび妨害され、彼の思い描いた戦略は実現できなかった。こうした内部分裂が、蜀漢の弱体化を加速させたのである。
3. 鄧艾の侵攻と蜀漢の滅亡
黄皓の悪政が最も大きな影響を与えたのは、魏の将軍・鄧艾(とうがい)の蜀侵攻の際である。
(1)魏軍の侵攻と対応の遅れ
263年、魏の司馬昭は蜀討伐を決定し、鄧艾と鍾会(しょうかい)を派遣して攻撃を開始した。鍾会は正面から攻める一方、鄧艾は険しい山道を抜け、奇襲を仕掛けるという戦略を取った。
このとき、姜維は魏軍の動きを察知し、防衛のための対策を劉禅に進言した。しかし、黄皓は「魏軍は攻めてこない」という誤った情報を流し、劉禅が防衛策を講じるのを妨害した。このため、蜀軍の対応が遅れ、魏軍は驚くほどの速さで蜀の領内へと進軍した。
(2)成都陥落と黄皓の末路
鄧艾の軍は急峻な道を越えて成都近郊に迫った。姜維は奮戦したものの、すでに形勢は決しており、最終的に劉禅は降伏を余儀なくされた。
蜀が滅亡したとき、黄皓は自身の命を守るために必死になった。魏軍が成都に入ると、彼は隠れて身を守ろうとしたが、最終的に捕らえられ、処刑されたとも、殺されずに失脚したともいわれている。
4. まとめ――蜀漢を滅亡に導いた宦官
黄皓の影響力は、蜀漢の政治を腐敗させ、忠臣たちの努力を妨害し、最終的に国家の崩壊を早めた。彼の専横がなければ、姜維の軍事行動はより成功し、魏軍の侵攻に対しても適切な対応が取れたかもしれない。
三国志の歴史の中で、黄皓は戦場での活躍こそなかったものの、その悪政と陰謀によって蜀漢を衰退させた「影の黒幕」として語り継がれている。
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