
孟獲の活躍とエピソード
孟獲(もうかく)は、中国三国時代の蜀漢に敵対した南蛮の豪族であり、特に蜀の丞相・諸葛亮(しょかつりょう)との戦いで有名である。彼は蜀漢の南方に位置する「南中」(現在の雲南省や貴州省、四川省南部にまたがる地域)の有力者であり、地元の少数民族を率いて蜀に反抗した。彼の戦いは「南蛮征伐」または「南中平定戦」として知られ、諸葛亮との知略戦が数々のエピソードとして語り継がれている。本稿では、孟獲の活躍を具体的なエピソードとともに詳しく解説していく。
1. 孟獲とは何者か?
孟獲は、中国南部の少数民族を率いる豪族であった。正史『三国志』や、その注釈である裴松之(はいしょうし)の記録によれば、彼は南中の地で一定の勢力を持ち、蜀漢の支配に反抗していた。『三国志演義』では、彼を「南蛮王」と称するが、正史においてはそのような王号は確認されていない。しかし、彼が南中の諸部族をまとめ、蜀に対抗したことは間違いない。
南中の地は、漢民族とは異なる文化を持つ少数民族が多く、蜀漢の支配に対して反感を抱いていた。特に、劉備(りゅうび)が蜀を建国した後、蜀漢は南中から税や兵士を徴収しようとしたため、現地の人々はこれに不満を持っていた。このような状況の中、孟獲は地元の豪族たちをまとめ、蜀漢に対して反乱を起こしたのである。
2. 南中平定戦の背景
劉備が亡くなり、蜀の政治を諸葛亮が執った頃(223年以降)、南中の地では蜀の支配に対する反乱が相次いでいた。蜀の国力を支えるためには、南中の安定が不可欠であった。南中の地は、蜀漢にとって重要な資源地であり、特に戦争に必要な物資や兵士の供給源だった。
この反乱の中心人物が孟獲であった。孟獲は地元の部族と結託し、蜀の官吏を追放して南中の独立を目指した。これに対し、諸葛亮は蜀の南方安定のため、直接南中遠征を決意した。こうして始まったのが「南中平定戦」である。
3. 諸葛亮との知略戦
(1)孟獲の捕縛と放免
諸葛亮は南中へ遠征し、孟獲の軍勢と戦った。孟獲は蜀軍の罠にはまり、捕らえられる。しかし、諸葛亮は孟獲を殺さず、「お前が私たちの力を認めるなら降伏するか?」と問いかけた。
孟獲はこれを拒否し、「蜀軍の力が本物かどうか、まだわからない」と答えた。諸葛亮はそれを聞き、「では、お前が満足するまで戦ってみよ」と言って孟獲を解放した。
この捕縛と放免は合計で七回繰り返され、「七縦七擒(しちしょうしちきん)」として有名なエピソードになった。これは『三国志演義』において強調されたが、正史でも諸葛亮が孟獲を捕えては放ち、最終的に降伏させたことは記録されている。
(2)「藤甲兵」との戦い
孟獲が諸葛亮に敗れた後、彼はより強力な部族「藤甲兵(とうこうへい)」を頼ることにした。藤甲兵は、特殊な防具「藤の鎧」を身にまとった兵士で、弓矢や剣では傷つかないとされていた。この部隊は非常に強力であり、蜀軍も苦戦した。
しかし、諸葛亮は藤甲兵の弱点を見抜く。藤甲兵の鎧は水に強いが、火に弱かった。そこで諸葛亮は計略を巡らせ、藤甲兵を峡谷へ誘い込み、そこに火を放った。藤甲兵は炎に包まれ、壊滅した。これにより、孟獲の最後の抵抗も崩壊し、彼は再び捕らえられた。
4. 孟獲の降伏とその後
孟獲は七度捕らえられ、七度解放された末に、ついに諸葛亮の誠意と実力を認めた。彼は、「もう南中の地は蜀漢に逆らわない」と誓い、正式に降伏した。これにより、南中の地は安定し、蜀漢の支配下に置かれることとなった。
諸葛亮は、孟獲を処刑せず、南中の地へ帰らせた。孟獲はその後、再び反乱を起こすことはなく、南中は蜀の支配下に入った。これは諸葛亮の「懐柔政策」の成功例とされている。
5. 孟獲の評価
孟獲は、単なる反乱者ではなく、南中の独立を目指した指導者として評価されることが多い。彼の戦いは、諸葛亮の知略と対比される形で語られ、結果的に蜀漢の南方安定に貢献する形となった。
また、『三国志演義』では彼のキャラクターがより誇張され、「南蛮王」として描かれた。しかし、正史では彼の詳細な出自やその後の人生についての記録は少なく、伝説的な存在となっている。
まとめ
孟獲は、三国時代に南中の地で蜀漢と対峙した指導者であった。彼は南中の人々を率いて諸葛亮に反抗し、「七縦七擒」や「藤甲兵の戦い」といったエピソードを残した。最終的には諸葛亮に降伏し、その後は蜀漢の支配を受け入れた。彼の戦いは、単なる反乱ではなく、南中の独立をかけた抵抗でもあったと言える。
この南中平定戦は、蜀漢にとって重要な勝利であり、諸葛亮の知略の高さを示すエピソードとなった。そして、孟獲は諸葛亮の計略の前に屈したものの、最後まで南中の誇りを持ち続けた豪族であった。
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