
三国時代における高翔の活躍
高翔(こうしょう)は、三国時代の蜀漢に仕えた将軍であり、右将軍および玄郷侯に任じられた人物である。彼の活躍は、諸葛亮の北伐を中心に展開され、蜀漢の軍事行動において重要な役割を果たした。本稿では、彼の生涯を追いながら、特に彼が関与した戦いとその影響について詳しく述べる。
1. 陽平関の戦い(218年)
建安23年(218年)、劉備は漢中の支配を巡り、曹操の軍勢と対峙した。この戦いは、劉備が漢中を攻略するために不可欠なものであり、多くの武将が投入された。高翔は陽平関(現在の陝西省漢中市寧強県)に兵を駐屯させ、蜀軍の補給線を維持し、前線へ物資を送る役目を担っていた。しかし、曹操軍の将軍・徐晃が陽平関へ侵攻し、高翔は激戦の末に敗北を喫することとなった。
この敗北によって、高翔の評価が下がることはなかった。なぜなら、彼の任務は陽平関の防衛だけでなく、戦況に応じた適切な撤退と補給線の維持であったためである。結果的に、劉備は陽平関を失ったものの、全体の補給網を崩さずに戦いを続け、最終的に曹操の漢中支配を崩すことに成功した。
2. 街亭の戦いと列柳城の防衛(228年)
建興6年(228年)、諸葛亮は第一次北伐を決行し、魏の勢力を削ごうとした。この北伐では、蜀軍は各方面に分かれて進軍し、高翔は右将軍として従軍した。諸葛亮は馬謖を街亭の守備に任じ、高翔には街亭の北東に位置する列柳城(現在の甘粛省天水市張家川回族自治県)に1万の兵を率いて駐屯するよう命じた。彼の役割は、街亭が魏軍の攻撃を受けた際に援軍として駆けつけることであった。
しかし、馬謖が街亭で魏の張郃に大敗を喫し、高翔の軍は魏軍の郭淮によって列柳城で包囲された。高翔は懸命に防戦したが、蜀軍全体の戦況が悪化したため、撤退を余儀なくされた。この戦いにおいて、彼は最後まで持ちこたえたものの、街亭の敗北が蜀軍全体の撤退を引き起こした。
3. 祁山の戦い(231年)
建興9年(231年)、諸葛亮は第四次北伐を実施し、再び魏と戦った。この戦いでは、蜀軍の布陣が見直され、高翔は前部督として魏延、呉班と共に司馬懿率いる魏軍と祁山で激突した。
蜀軍は司馬懿の軍勢と激戦を繰り広げ、最終的には魏軍に大きな損害を与えた。この戦いにおいて、高翔の軍は魏軍を3,000人以上討ち取り、5,000領の黒い鎧と3,100張の角弩を鹵獲する戦果を上げた。彼の活躍により、蜀軍の士気は大いに高まり、魏軍にとっても大きな脅威となった。
4. 李厳の更迭(231年)
同じく建興9年、蜀の大臣・李厳が軍務を怠り、虚偽の報告を行ったため、諸葛亮は彼の更迭を決意した。この際、高翔は呉班らと共に連名で劉禅に上奏し、李厳の罷免を求めた。彼の主張は、軍の規律を保ち、諸葛亮の北伐を成功させるためのものであった。
高翔の上奏により、李厳は官職を解かれ、蜀軍の指揮体系が強化された。これは、蜀の軍政がより統制の取れたものとなる契機となった。
5. 『三国志演義』における描写
小説『三国志演義』では、高翔は蜀漢の勇将として描かれている。特に諸葛亮の北伐において、右将軍・玄都侯として従軍し、趙雲が魏の姜維の計略に陥った際には、張翼と共に救援に駆けつけた。
また、司馬懿が攻めてきた際には、列柳城に駐屯し、街亭を守る馬謖を支援する役割を担った。しかし、馬謖が敗北したことで高翔も魏軍の攻撃を受け、撤退を余儀なくされた。さらに、諸葛亮が五度目の北伐を行った際には、高翔は木牛流馬を用いて兵糧の輸送を担当し、上方谷で司馬懿を誘い込む作戦にも関与したとされる。
6. 高翔の評価と影響
魏の皇帝・曹叡は、高翔と馬謖について「王師方振,胆破気奪,馬謖、高詳,望旗奔敗」と評しており、彼らが魏軍の旗を見ただけで敗走したと述べている。しかし、実際の歴史記録において、高翔は蜀漢の軍事行動において重要な役割を果たし、決して無能な将軍ではなかった。
彼の功績は、蜀軍の補給線の維持や魏軍への打撃、軍の規律維持に貢献した点にある。結果として、彼は劉禅からの信頼を得て右将軍に任じられたのである。
まとめ
高翔は、蜀漢において重要な役割を果たした将軍の一人である。彼の生涯を通じて、陽平関の戦い、街亭の戦い、祁山の戦いといった多くの戦いに関与し、その功績を残した。また、軍の規律維持にも尽力し、蜀漢の軍事行動に大きな影響を与えた。
彼の名は、蜀の歴史において決して派手ではないものの、確かな貢献を果たした将軍として記録されている。
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