
三国志の名医・華佗──戦乱の時代を癒した天才医師の生涯と活躍
三国志の時代、武将たちは智略と武勇を競い合い、戦火が大地を焼き尽くす混乱の世であった。しかし、その影で静かに、そして確かに人々の命を救った人物がいた。名を「華佗(かだ)」という。彼は「神医(しんい)」とも呼ばれ、現代の外科手術に匹敵する医術を駆使し、多くの名将の命を救ったことで知られる。本稿では、華佗の人物像と彼が関わった三国志の重要なエピソードを通して、彼の功績を探る。
若き日の華佗とその修行
華佗は後漢末期、現在の安徽省亳州(はくしゅう)に生まれた。幼少より聡明で学問を好み、当初は官僚の道を目指したが、やがて医術への興味が芽生えると、名医のもとで修行を積んだ。東方の古医書を読み解き、鍼灸、漢方、さらに体操や気功といった身体の調整法にも通じたという。
彼の名が広く知られるようになったのは、単なる民間療法の域を超え、人体を科学的に観察する姿勢があったからだ。彼は診察にあたり「望診(ぼうしん)・聞診・問診・切診」の四診法を使い、患者の体質に応じて処方を変える、いわば個別医療を実践していた。
曹操との出会い──名医の名声を確立した一大事件
華佗の名声が最も知られるようになったきっかけは、魏の丞相・曹操(そうそう)との関わりである。
曹操は頭痛に悩まされていた。ときに刀で割るような激痛が襲い、政務を取ることすらできないほどであったという。数多くの医者が診たが、誰一人としてその原因を突き止めることはできなかった。
このとき推薦されたのが華佗である。華佗は曹操の脈を診ると「これは風寒が脳に入ったもので、脳に膿が溜まっている状態です。開頭して膿を取り除けば完治します」と進言した。これは、現代でいうところの開頭手術にあたる。
しかし、これを聞いた曹操は激怒した。「お前はわしの頭を割る気か!謀反を企てておるのではないか!」と疑い、華佗を投獄してしまう。これが華佗の運命を大きく変えることになる。
「麻沸散」と外科手術の先駆者
華佗の医術で特筆すべきは、全身麻酔の原理を用いたとされる「麻沸散(まふつさん)」の存在である。これは煎じ薬として飲ませることで患者を眠らせ、その間に外科手術を行うという、世界的にも極めて先進的な医療技術であった。
彼はこの技術を使い、数々の患者の腹を切り、腸を洗い、再び縫合するという現代でも高度な処置を行っていたという記録が残る。これは、膿瘍(のうよう)や腹膜炎といった病気の治療に用いられたと考えられる。
ただし、麻沸散の正確な成分は華佗の死後、彼の妻が恐れて処方を燃やしてしまったため、現在に伝わっていない。
呂布配下・高順の兵を治療した伝説
もう一つの逸話として有名なのが、呂布の配下にいた将軍・高順(こうじゅん)にまつわる話である。高順の兵が疫病にかかり、死者が相次いだ。軍医では手の打ちようがなく、絶望していたところに華佗が招かれた。
華佗は患者の症状を丹念に観察し、「これは飲み水が原因です。井戸が腐っている」と診断。すぐさま新しい水源を探すよう命じ、薬草で治療を施したところ、病はたちまち鎮まった。
この話は軍の士気を回復させ、呂布軍はその後、長安における戦闘で一時優勢を誇ることになる。
命の灯火と引き換えに
曹操に投獄された華佗は、牢中でも医書を編纂しようとしていた。しかし、看守にそれを届けようと頼んだところ、「このような医術が再び曹操を疑わせる」と言われて断られてしまう。やがて、華佗は牢中で病死する。時に、推定80歳とも伝わる。
その後、曹操は華佗を殺したことを激しく後悔したという。「彼を殺さず、医術を国の宝とすべきだった」と嘆いたと『後漢書』には記されている。
まとめ──戦ではなく、命を救う戦いをした英雄
三国志に登場する人物たちの多くは、剣を取り、戦場に立った。しかし華佗は、剣ではなく鍼を手に、人の命を救う戦いに生涯を捧げた。彼の名は今も中国医学界で語り継がれ、「華佗再生」という言葉は、名医の代名詞となっている。
もし彼が存命で、曹操の頭痛の原因を除いていれば、魏の歴史はまた違った形で進んでいたかもしれない。だが、それ以上に彼が現代に残した教訓は、「医とは戦のためではなく、人のためにある」という普遍的な理念である。
戦乱の時代に、一筋の光として輝いた名医・華佗。その生涯は、今なお私たちに深い感銘を与え続けている。
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