
呉班 ― 蜀漢の忠勇なる将軍
三国志の時代において、蜀漢に仕えた数多くの将軍の中で、呉班(ごはん)は決して中心人物として目立つ存在ではない。しかし、彼は戦場において冷静かつ堅実な指揮を取り、蜀の中堅武将として数々の戦役で活躍した忠義の将である。本稿では、呉班の略歴を紹介するとともに、彼が活躍した具体的な戦役――特に「漢中争奪戦」や「街亭の戦い」、さらには「五丈原の戦い」などを取り上げ、蜀漢における彼の重要性を再評価する。
呉班の出自と背景
呉班は、蜀漢の創設者である劉備に仕えた老臣のひとり、呉懿(ごい)の甥にあたる人物である。呉懿は蜀の初期から重用されていた文武両道の将であり、その縁から呉班も若くして蜀に仕えた。彼は張嶷(ちょうぎ)らと並び称されるような忠義の将であり、前線での働きよりも、堅実な指揮と後方支援、あるいは局地戦での活躍に光るものがあった。
漢中争奪戦と呉班の初陣
呉班の名が歴史に現れる最初の大きな戦いは、「漢中争奪戦」である。これは劉備と曹操との間で繰り広げられた戦いで、漢中という地理的・戦略的要地を巡る争奪戦であった。
219年、劉備は名将黄忠や張飛、法正などを率いて、漢中に進軍する。この戦いにおいて、呉班は前線での戦闘こそ少なかったものの、後方支援や補給線の確保に尽力し、戦局を安定させる役割を担ったとされる。また、局地的な小規模戦闘では先鋒の一部を任され、敵軍の斥候隊を撃退するなど、地味ながら重要な功績を挙げた。これによって、呉班は劉備の信頼を得て、将軍としての地位を固めていった。
街亭の戦いと馬謖の失敗を支えた呉班
呉班の名が特に記録に残るのは、諸葛亮の北伐における「街亭の戦い」(228年)である。この戦いは、諸葛亮が魏への第一次北伐を実施した際に、要所である街亭の守備を馬謖に任せたことで起きた悲劇として知られている。
馬謖は諸葛亮の厚い信頼を受け、呉班を副将として伴って街亭に赴いた。しかし、馬謖は地形の不利を無視して山上に布陣し、魏の張郃に敗北を喫する。水源を断たれ、退路を失った蜀軍は壊滅的打撃を受けた。
このとき、呉班は馬謖の無謀な戦術に反対し、山ではなく道を押さえるべきだと進言していたという。しかし、馬謖はこれを退け、命令を強行した。呉班は副将としてその命令に従わざるを得なかったが、戦局が悪化する中でも冷静に対応し、可能な限り兵をまとめて脱出路を確保しようと尽力した。最終的に街亭は陥落したものの、呉班の指揮によって生還した兵も多く、彼の統率力の高さが際立った場面である。
この敗北により、馬謖は処刑され、諸葛亮は自らの任命責任を取って「三たび自らを罰した」とされるが、呉班はその後も重用され続けた。これは、彼の忠誠心と的確な判断力が評価された証である。
五丈原の戦いと最後の北伐
呉班の名が最後に大きく登場するのは、234年の「五丈原の戦い」である。これは、諸葛亮の生涯最後の北伐であり、魏の司馬懿との長期戦が展開された。
五丈原では、大規模な正面衝突こそなかったが、補給線の維持や小規模な交戦が頻発していた。呉班はこの戦役において、諸葛亮の命を受け、要所の防衛と前線支援を担当した。特に魏軍の夜襲に備えた陣形の構築や、防衛線の再整備に尽力し、蜀軍の陣地を固守することに貢献した。
この戦いの最中、諸葛亮は病に倒れ、その死去によって北伐は終了する。蜀軍は撤退を余儀なくされるが、呉班はその退却の際にも殿軍を務め、敵軍の追撃を防いだ。この働きにより、蜀軍は大きな損害なく撤退することに成功したと伝えられている。
呉班の評価と晩年
呉班はその後も蜀の軍務に携わり、後方支援や国境警備の任に当たった。彼のような実直な将軍は、英雄豪傑の影に隠れがちではあるが、戦の勝敗を左右する存在でもある。『三国志』の正史では彼の記録は簡略であり、『裴松之注』などを含めても詳細は多くは語られていないが、軍中では信頼厚く、兵士たちからも尊敬されていたことは、彼のたびたびの登用からもうかがえる。
また、彼の一族は後に蜀の重臣となった姜維の補佐にも関与していた可能性があり、蜀漢における軍閥の一翼として長く存在感を保ち続けた。
結びに代えて
呉班は、華やかな名将たちとは異なり、堅実で目立たぬ活躍を重ねた蜀の支柱ともいえる存在であった。彼の忠義、冷静な判断、そして責任感は、三国志という激動の時代において、蜀漢の軍事基盤を支える大きな力であったといえるだろう。
歴史の表舞台に立つことは少なかったが、呉班のような将がいたからこそ、劉備や諸葛亮は戦略を描き、夢を追うことができたのである。
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