はじめに

三国時代の蜀漢の丞相・諸葛亮(字:孔明)は、魏の勢力を討ち、漢王朝の復興を目指して生涯を捧げた。その中でも、彼が主導した「北伐」は、蜀漢の命運をかけた一連の軍事作戦であった。諸葛亮は計五回にわたって北伐を行ったが、その最初の試みである第一次北伐(227年〜228年)は、彼の戦略と蜀の軍事力が初めて試された戦いであり、後の戦役にも大きな影響を与えた。本稿では、諸葛亮の第一次北伐について、背景、戦略、戦闘の経過、結果、およびその影響を詳しく述べる。
背景
諸葛亮は221年に劉備が亡くなった後、後を継いだ劉禅(公嗣)を補佐し、蜀漢の実質的な最高指導者となった。劉備の遺志を継ぎ、漢王朝の再興を果たすためには、最大の敵である魏に対抗する必要があった。しかし、蜀漢は人口や国力の面で魏に劣り、また南方では異民族との問題も抱えていた。
諸葛亮はまず内政の改革に着手し、国力を充実させた。経済や軍事制度の整備を進めると同時に、南中の異民族を討伐し、後顧の憂いを断った(225年の南征)。これにより、蜀の安定が確保され、魏に対する積極的な軍事行動が可能となった。227年、諸葛亮は有名な「出師の表」を上奏し、劉禅に北伐の決意を伝えた。この上奏文は、彼の忠誠心と戦意を示す名文として後世に伝わっている。
諸葛亮は、魏の支配が比較的弱い関中地域を攻め、長安を奪取することを目指した。魏の皇帝曹叡のもと、関中を守るのは老将・夏侯楙(字:子休)であり、諸葛亮は彼の指揮能力の低さを突くことで、戦局を有利に進めようと考えた。
戦略
諸葛亮の第一次北伐の戦略は、複数の方面から魏を攻めることで敵の防衛線を分散させるものであった。彼は主力軍を率いて漢中から進軍し、関中を目指す一方で、魏の要所である陳倉や郿(び)を攻撃し、補給路を確保しようとした。また、蜀と同盟関係にあった呉にも攻勢をかけるよう働きかけ、魏を東西から圧迫する計画だった。
諸葛亮の軍勢は十万とされ、漢中から祁山(現在の甘粛省)方面へ進軍した。祁山は長安に至る戦略的な要衝であり、魏にとって重要な防衛拠点であった。諸葛亮はこの地を拠点とし、魏の領土内での作戦を展開しようと考えた。
戦闘の経過
天水・安定・南安の攻略
諸葛亮が漢中から北上すると、魏の諸将は対応に苦慮した。蜀軍の勢いに押され、魏の関中三郡(天水・安定・南安)の太守たちは動揺し、蜀への降伏を考える者も現れた。特に、天水の姜維(のちに蜀の名将となる)は、蜀への降伏を考えていたが、魏の郭淮によって阻止された。しかし、最終的に姜維は諸葛亮に投降し、以後、彼の腹心として活躍することになる。
街亭の戦い
諸葛亮は魏の防衛拠点である祁山を攻略したが、その後の補給線の確保が課題となった。このため、彼は馬謖を街亭に派遣し、魏の反撃に備えさせた。しかし、馬謖は命令に背いて高地に陣を敷き、魏の名将張郃(字:儁乂)に包囲される形となった。張郃は街亭の水源を断つ戦術を用い、蜀軍を壊滅状態に追い込んだ。結局、馬謖は敗走し、蜀軍の北伐は大きく後退することとなった。
この敗戦の影響は大きく、諸葛亮はやむなく撤退を決定した。なお、敗戦の責任を取る形で、馬謖は処刑され(泣いて馬謖を斬る)、諸葛亮自身も官職を降格し、自らの責任を問うた。
陳倉の攻防
蜀軍が撤退する際、魏の陳倉に駐屯していた郝昭が蜀軍の追撃を防いだ。諸葛亮は陳倉を攻めたが、郝昭の防御が堅く、ここでも蜀軍は苦戦を強いられた。結局、陳倉を攻略できないまま、蜀軍は完全撤退を余儀なくされた。
結果と影響
第一次北伐は、当初の勢いこそ良かったものの、街亭での敗北が決定打となり、諸葛亮の計画は失敗に終わった。ただし、この北伐にはいくつかの成果もあった。
- 姜維の獲得:天水攻略戦で降伏した姜維は、後に蜀の重要な戦力となり、最終的には蜀の軍事を担う存在へと成長した。
- 魏の関中防衛の動揺:魏の地方軍が蜀の攻勢に動揺し、蜀の軍事力を認識する契機となった。
- 蜀の軍事改革:馬謖の敗北を教訓に、以後、諸葛亮は実戦経験豊富な将軍を重用し、軍の統制をより厳格にするようになった。
とはいえ、北伐の失敗によって蜀の国力は消耗し、魏に対する攻勢の遅れを招いた。魏もまた蜀の脅威を再認識し、防御をより強固にするよう努めたため、諸葛亮の次なる北伐はさらに困難なものとなった。
結論
諸葛亮の第一次北伐は、彼の生涯をかけた対魏戦略の第一歩であった。その戦略自体は優れていたものの、馬謖の失敗や魏の反撃により、最終的には撤退を余儀なくされた。しかし、この戦いは蜀の軍事戦略を洗練させ、姜維という優れた将を得るきっかけともなった。諸葛亮はこの失敗を糧に、次なる北伐への準備を進め、後にさらなる戦いへと挑んでいくことになる。
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