
三国時代、劉備の死後に蜀漢の政権を担った諸葛亮は、その政治・軍事両面において精力的に活動した。中でも魏に対する「北伐」は、彼の生涯をかけた国家戦略であり、その意志と戦略眼を象徴するものであった。建興十年(西暦232年)に行われた第四次北伐は、前回の第三次北伐からわずか一年後に再開された戦役であり、祁山方面に再び進軍し、魏軍との持久戦を展開した。
この北伐は、戦略的には大規模な戦闘には至らなかったものの、魏との戦力消耗戦という観点で重要な位置を占める。また、司馬懿との対峙を通じて、諸葛亮の用兵観や戦略の成熟がうかがえる戦いでもあった。本稿では、この第四次北伐について、時代背景、軍事展開、人物関係などを交えて詳細に論じる。
再度の決断――第三次北伐の余熱
建興九年(231年)の第三次北伐では、蜀軍は張郃を討ち取るなどの戦果をあげたものの、李厳による補給の失策が致命的となり、長期戦を維持できずに撤退を余儀なくされた。しかし、諸葛亮はその敗北にくじけることなく、再び北伐を準備する。
諸葛亮の北伐方針は、単なる軍事的侵攻ではなく、「漢室再興」のための政治的行動でもあった。国内の民心を維持し、魏の圧力を牽制し、同盟関係(呉との孫権政権)を保つためにも、定期的な軍事行動が必要とされたのだ。さらに、祁山方面は蜀にとって地の利がある戦域であり、補給線の整備も進んでいたことから、再びこのルートが選ばれた。
第四次北伐の目的は、魏の西方守備をかく乱し、必要であれば局地的な戦果を上げて軍威を示すことであった。諸葛亮は、この北伐に際しても慎重かつ計画的に布陣し、無理な攻勢は避けつつ、戦略的圧力をかけ続けることを目指していた。
兵力展開――持久戦への布石
第四次北伐においても、諸葛亮は自ら軍を率いて漢中から北上し、再び祁山を目指して進軍する。この年、蜀軍は大規模な正面突破を狙うのではなく、魏の防衛体制に揺さぶりをかけるかたちで慎重に行動した。
魏側では、前回の北伐において張郃を失った教訓を踏まえ、より慎重な対応を採ることになる。司馬懿が再び都督として西方防衛の総指揮を執り、長安の防衛に万全を期した。彼は無理な野戦を避け、籠城や補給線の保持に注力する方針をとった。
戦闘そのものは比較的限定的で、大規模な会戦には至らなかったが、両軍は戦略的な「にらみ合い」を展開しながら、じわじわと消耗戦へと突入していく。この段階での北伐の目的は、魏の戦力を消耗させ、蜀に有利な状況を築くことであった。
蜀と魏の攻防――持久戦の知略
第四次北伐における最大の特徴は、**「持久戦」**としての性格が強い点にある。これは、諸葛亮が軍事戦略において急進主義を採らず、地理的条件や兵站の限界を熟慮した上で、消耗と揺さぶりを主眼に置いたためである。
蜀軍は祁山の周辺に陣を敷き、魏軍との直接交戦を避けつつ、局地的な小競り合いを繰り返した。補給線を保ち、敵をじわじわと消耗させる戦術は、後年の五丈原での対峙にも通じる戦略である。とりわけ諸葛亮は、司馬懿の性格を読み切った上で、無理な戦闘を仕掛けないことで主導権を握ろうとした。
この時、蜀軍の内部では、王平や呉懿、姜維らがそれぞれの持ち場で動き、戦線を維持していたとされる。兵力は決して多くはなかったが、精鋭で編成された蜀軍は、機動力を活かして魏軍に絶え間なく圧力を加えた。
内政と外交の連携――北伐の多重的意義
第四次北伐は単なる軍事行動にとどまらず、諸葛亮の内政・外交方針とも密接に関連していた。この頃、孫権率いる呉との関係は比較的安定しており、東西から魏を挟撃する体制が整いつつあった。北伐を継続することで、呉に対しても「蜀は戦意を失っていない」という外交的メッセージを発信する効果があった。
また、国内では北伐による軍の動員が人心を引き締め、国家の結束を保つ手段ともなった。諸葛亮はただ戦うだけでなく、戦によって「国を治める」ことを意識しており、その意味で第四次北伐は、軍事・政治・外交の三位一体で行われた国家戦略だったといえる。
戦果と撤退――損得なき戦い
結果として、第四次北伐は大規模な戦果を得ることなく、数ヶ月のにらみ合いの末に撤退という形で終わった。しかし、それは決して敗北ではなく、魏に対する圧力を維持しつつ、無理な消耗を避けるという目的を果たした戦役であった。
諸葛亮はこの時期に、さらなる兵站整備や軍制改革に着手しており、次なる北伐への準備を怠らなかった。特に屯田制の拡充、軍用馬の飼育、兵器の補充など、長期戦を見据えた国防計画を着実に進めていた。
撤退後、諸葛亮は再び漢中に戻り、次の北伐――第五次、すなわち五丈原の戦いに向けた布石を打っていくことになる。
終わりに――第四次北伐の評価と意義
第四次北伐は、第三次に比べて派手な戦果もなく、戦場での大規模な戦闘も記録されていないため、歴史的には地味な印象を持たれがちである。しかし、その実態は「北伐継続」の姿勢を内外に示し、蜀漢の存在意義を保ち続けるという点で、極めて重要な意味を持っていた。
また、魏の司馬懿との駆け引きを通じて、諸葛亮の戦略がより円熟し、慎重かつ長期的な戦略観に基づく行動へと進化していたことも注目される。第四次北伐は、直接的な勝敗では測れない「政治的勝利」の色彩を持った戦役であり、彼の軍事思想の一端を垣間見ることができる貴重な一幕である。
そしてこの北伐が、諸葛亮最後の戦い――五丈原での第五次北伐への確かな一歩であったことは、歴史の必然として深く刻まれている。
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