
三国時代において、中国大陸の覇権を巡る争いは中原のみに限られず、東北や南方、さらには西域にまで及んだ。中でも、魏の名将・司馬懿が238年に行った遼東遠征は、後世に深い影響を及ぼす軍事行動のひとつとして知られている。この遠征は単なる地方反乱の鎮圧に留まらず、遼東という地政学的要衝を制し、朝鮮半島を含む東夷との関係にも大きな変化をもたらした。ここでは、司馬懿による遼東遠征の経緯、背景、戦術、影響について、詳細に見ていきたい。
■ 遼東の独立政権――公孫氏の台頭
遼東は中国本土の東北辺境に位置し、古くから異民族や異文化との接点として重視されてきた。後漢末、中央政権の力が弱まる中で、この地に一族の勢力を築いたのが公孫度である。彼は後漢朝から遼東太守に任命され、地理的に孤立した状況を逆手にとり、独立勢力を形成した。
その息子である公孫康も父の跡を継ぎ、さらに孫の公孫淵の時代になると、魏と呉の両国との外交関係を巧みに操りつつ、独自の「燕王」を名乗って魏に対抗する姿勢を強めた。彼は呉と同盟を結びながら、魏には形式的な臣従を示すという二重外交を展開し、やがて魏に対して公然と反旗を翻す。
このような動きは、魏にとって重大な脅威であった。遼東が完全に反魏化すれば、朝鮮半島を含む東方の交易路・軍事路が断絶し、さらに呉と連携した挟撃の危険も生じる。魏の朝廷は、この脅威を排除すべく、司馬懿に討伐を命じたのである。
■ 司馬懿の起用と遠征準備
238年、魏の大将軍・司馬懿は遼東討伐軍の総司令官に任命された。当時すでに60歳を超えていた司馬懿は、政治的にも軍事的にも老練な指揮官であり、曹丕・曹叡に仕えて数々の戦功を挙げていた。
司馬懿は遼東遠征にあたり、慎重かつ周到な準備を整えた。敵地は険しい山岳と湿地が連なる辺境であり、補給線の維持が極めて困難であった。彼は後方補給を確保するため、冀州・幽州から兵糧や兵器を集め、船を用いて遼河を遡行する水陸両用の戦術を採用した。また、同時に遼西方面からの進軍も計画し、公孫淵の注意を分散させる。
この慎重な準備の背後には、司馬懿の深い洞察があった。公孫氏の拠点である襄平(現在の遼寧省遼陽市)は、堅固な城壁に守られており、強攻では長期戦になる恐れがあった。そのため、彼は心理戦と包囲戦を中心とした作戦を構想していた。
■ 包囲と殲滅――襄平の陥落
司馬懿の軍勢が遼東に到達した時、公孫淵はすでに魏軍の進軍を予測しており、軍を率いて迎撃しようとした。しかし、司馬懿はこれを巧みに回避し、主力を襄平包囲に集中させた。
ここで司馬懿は、兵糧攻めと長期包囲を選択する。遼東は交通が不便で、外部からの支援を受けにくいため、持久戦に持ち込めば必ず優位に立てるという判断であった。実際、司馬懿は自軍にも厳しい統制を敷き、「草一本でも勝手に取ることを禁ず」という厳格な規律を布き、現地民からの信頼を得ることにも成功した。
包囲から約三ヶ月、襄平城内では飢饉と混乱が広がり、公孫淵の軍は次第に士気を失っていった。やがて、司馬懿は総攻撃を命じ、城を陥落させた。公孫淵とその子公孫修は捕らえられ、斬首された。ここに、遼東における公孫氏の独立政権は滅亡したのである。
■ 朝鮮半島と倭国への影響
この遠征の成果は、単なる内乱の鎮圧にとどまらない。公孫氏が支配していた遼東は、朝鮮半島北部の帯方郡や楽浪郡と密接な関係を持っており、彼らの支配のもと、これらの地域は形式的には漢制を受け継ぎつつも、独立色を強めていた。
公孫淵の滅亡後、魏は改めて帯方郡を中心とする朝鮮半島北部の支配を強化し、倭(日本)の女王卑弥呼からの朝貢を受けるようになる。『魏志倭人伝』に記される卑弥呼の朝貢使節団が、帯方郡を経由して魏に至ったのは、この時期に遼東が安定したためである。司馬懿の遠征が東アジアの外交と交通網を再構築する契機となったことは見逃せない。
また、遼東における異民族――とくに鮮卑や扶余、濊貊(わいばく)など――との関係にも変化が生じ、魏は彼らへの監視と懐柔政策を強めていくこととなった。
■ 戦後処理と司馬懿の功績
遠征を終えた司馬懿は、公孫氏の残党を徹底的に掃討し、遼東に新たな郡県制を敷いて魏の直接支配体制を確立した。各地の豪族に恩賞を与えて帰順を促し、反抗勢力には厳罰をもって臨んだ。また、襄平城を中心に魏の軍事拠点が再整備され、東北辺境の安定に大きく貢献した。
司馬懿のこの勝利は、彼の軍事的才能を改めて世に示すものであり、政敵・曹爽との対立においても重要な政治的基盤となった。のちに司馬氏が魏を実質的に掌握し、最終的に晋を建国することになるが、その礎はこうした戦役の成功によって築かれていたと言える。
■ 結びに――東北の征服者、司馬懿
司馬懿による遼東遠征は、単なる地方反乱の鎮圧を超えた、魏による東北経略の集大成であった。この戦いにより、中華の枠組みは東へと拡張され、朝鮮半島を含む東アジア世界との新たな関係が開かれた。
その成果は、直接的には魏の東方支配の確立であり、間接的には倭国との国交樹立や、後の唐代に至るまで続く中国東北辺境の戦略的価値の認識に繋がっていく。司馬懿という一人の将の決断と行動が、東アジアの歴史地図を塗り替えるほどの影響を持っていたことは、まさに三国志という物語の奥深さを物語っている。
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