魏と高句麗の戦争

三国志時代の戦乱は、しばしば中国大陸の中原を舞台に展開されたと捉えられがちである。しかし、実際にはその戦火はしばしば辺境にも及び、特に中国の東北地方――すなわち遼東半島を中心とする地域――においては、異民族との緊張と衝突が繰り返された。中でも注目すべきは、魏と高句麗との間に展開された戦争である。高句麗は現在の中国東北部から朝鮮半島北部にまたがって存在した強大な勢力であり、その活動は三国志の記録にも重要な影響を与えている。本稿では、魏と高句麗の戦争を中心に、その歴史的背景、戦況、戦後の影響などを詳しく考察する。
一、高句麗の興起と地政学的背景
高句麗は紀元前1世紀末頃に建国されたとされる。最初は扶余(ふよ)の一部から分離した小国に過ぎなかったが、やがて東胡(とうこ)系民族や中国辺境の混乱に乗じて勢力を拡大していった。特に後漢末期から三国時代にかけての混乱期には、高句麗は遼東方面へと勢力を伸ばし、中国側の防衛線に直接影響を及ぼすようになる。
高句麗の中心地は初期には鴨緑江上流の国内城(現在の中国吉林省通化市)にあり、後に丸都城へと移った。いずれも中国東北地方と朝鮮半島をつなぐ重要な地点に位置し、遼東・玄菟(げんと)・帯方(たいほう)といった中国の辺境郡との接点を持っていた。これは、高句麗が中国勢力と頻繁に接触し、時には友好、時には戦争の対象となることを意味した。
二、公孫氏支配下の遼東と高句麗の外交
高句麗が魏と直接的に戦争を行うようになる以前、遼東地方は公孫度・公孫康・公孫淵と三代にわたって支配された、いわば半独立勢力の支配下にあった。彼らは名目上は後漢、のちに魏に属していたが、実質的には独自の外交や軍事行動を展開していた。
特に公孫淵は、魏と敵対しつつも高句麗や倭などの東夷諸国と連携を強め、魏の東北支配にとって深刻な脅威となっていた。高句麗は公孫氏との関係を通じて、魏との間接的な緊張関係に入っていった。『三国志』魏書・東夷伝に記録される高句麗の外交活動からは、彼らが当時すでに高度な外交能力と軍事力を有していたことがうかがえる。
三、司馬懿の遼東征伐と高句麗の参戦
238年、魏はついに公孫淵を討伐するために大軍を発し、その総司令官には司馬懿が任命された。この遠征は魏の軍事力を遼東に集中させる一大作戦であり、長城を越えて約四万の兵が遼東へと進撃した。
高句麗はこの戦争において公孫淵側に加担したと考えられている。『三国志』の記録には高句麗軍が直接参戦した記述は乏しいが、『魏略』などには、公孫淵が周辺の東夷勢力――すなわち高句麗・濊(わい)・倭など――との連携を模索していたことが記されている。公孫淵が滅ぼされたのち、魏はただちに高句麗に対して軍事行動を起こしており、これが両者の直接的な戦争の契機となった。
四、244年の魏による高句麗征討
魏と高句麗の本格的な戦争は、244年に発生した。これは魏の幽州刺史毌丘倹(かんきゅうけん)が指揮した軍事遠征であり、高句麗の王・位宮(いきゅう、あるいは中川王とも)に対する征討戦であった。
この戦争は、『三国志』魏書や『晋書』、さらには朝鮮の『三国史記』にも記録されており、複数の史料からその様相が再構成できる。毌丘倹は高句麗の首都である丸都城(現在の集安)にまで進軍し、これを攻略して焼き払ったとされる。このとき高句麗王は逃亡し、魏軍の追撃を受けたという。
高句麗にとってこの戦争は大打撃であり、首都の陥落は王権の危機を意味した。魏軍はまた、高句麗の諸城を焼き払い、多数の民を捕虜として連れ帰ったとされる。高句麗王族や貴族層の一部は魏に降伏し、朝貢関係が再構築された。
五、戦後の影響と高句麗の復興
魏の軍事行動は一時的に高句麗の勢力を削ぐことに成功したが、完全な支配には至らなかった。高句麗は首都を再建し、やがて再び勢力を盛り返していく。魏の滅亡後、晋の時代に入ると中国は再び混乱期を迎え、高句麗はその機会を利用してさらに南方へと進出し、帯方郡など中国の旧支配地を次々と併合していった。
高句麗は魏との戦争を通じて、中国との外交・軍事の在り方を学び、それを国家の強化に生かしたとも言える。244年の敗北は確かに痛手であったが、その後の反攻と発展は、まさに高句麗の回復力と戦略性の証明でもあった。
六、歴史的意義
魏と高句麗の戦争は、単なる辺境紛争の一つではなく、中国と東アジア諸民族との複雑な力関係を示す重要な事例である。魏にとっては東北辺境の安定化と朝貢体制の維持が主目的であり、高句麗にとっては独立と拡張が至上命題であった。
この戦争を通じて、三国時代の国際関係は単なる国内内戦の延長ではなく、すでに「国際戦争」と呼べる様相を呈していたことが分かる。高句麗はただの蛮族国家ではなく、強大な軍事力と外交戦略を有する国家として、中国と互角に渡り合っていた。
このように、三国志の時代背景を理解する上で、魏と高句麗の戦争は極めて重要なトピックであり、中国と朝鮮半島の国際関係史における一里塚とも言える事件であった。
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