諸葛誕の乱:三国志後期の魏を揺るがせた反乱

三国志における「諸葛誕の乱」は、西暦255年、魏の重臣であった諸葛誕が起こした大規模な反乱であり、三国時代後期における重要な政治・軍事事件の一つである。これは、蜀や呉といった外敵ではなく、魏の内部で起きた反乱であり、その影響は魏の政権安定に大きな揺らぎを与えるとともに、晋の台頭を加速させる一因となった。

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背景:司馬氏の台頭と魏の権力構造

この時代、魏の実権は形式上は皇帝にあったが、実際の政治を動かしていたのは、名門司馬一族であった。特に司馬懿の死後、その子である司馬師、そして弟の司馬昭が魏の政治を牛耳るようになり、皇帝曹芳や曹髦は傀儡と化していた。

諸葛誕は、蜀の諸葛亮とは一族であり、同じく名門の出身であった。魏に仕え、文武両道の才を持っていた彼は、長年にわたり朝廷で重きをなしていたが、司馬氏の専横には内心強い警戒心を抱いていた。

かつて同じく魏の重臣であった王淩や毌丘倹といった人物が、司馬師に対して反乱を起こしたが、いずれも鎮圧され、その過程で諸葛誕は政敵を失っていくことになる。この状況下、諸葛誕も次第に司馬氏によって排除されるのではないかという疑念と恐怖を抱くようになった。

反乱勃発:寿春での挙兵

255年、司馬師が死去し、司馬昭がその後継として台頭する。司馬昭の実権掌握は、魏の大臣たちにとってさらに圧迫感を与えた。諸葛誕は当時、揚州刺史として寿春(現在の安徽省寿県)に駐屯しており、南方の守備を任されていた。

その年、魏は諸葛誕に寿春の城の改修を命じた。これを、中央政権による監視強化・粛清の前兆と受け取った諸葛誕は、ついに決断を下す。彼は突如として反旗を翻し、自らの軍勢を率いて独立を宣言した。

彼は呉に使者を送り、援軍を求めるとともに、魏に対する共同戦線を提案した。呉の孫亮(実権は孫峻)がこれに応じ、軍勢を派遣することで、諸葛誕の反乱は魏と呉の共同軍事行動という様相を呈する。

諸葛誕の戦力と戦略

諸葛誕は、寿春に十数万とも言われる兵を擁していた。彼のもとには、魏で粛清を恐れていた兵士や地方の不満分子が集い、初期の戦力は相当なものであった。加えて、呉からは朱異、唐咨、文欽らが援軍として派遣され、南方からの挟撃も狙われた。

特に文欽は、かつて魏の将軍だったが、毌丘倹の反乱後に呉へ亡命していた人物であり、魏に対して強い怨念を抱いていた。彼とその子・文鴦は、諸葛誕の乱における主要な戦力として活躍する。

諸葛誕の戦略は、寿春を拠点とし、呉と連携しながら魏の南部を制圧し、最終的には洛陽に向けて進軍するという野心的なものであった。

魏の対応:司馬昭の出陣

魏の朝廷は、諸葛誕の挙兵を重大な危機とみなし、司馬昭を大将軍に任命し、鎮圧軍を編成した。その数は20万とも言われ、司馬昭自身が軍を率いて南下する。

司馬昭はまず、敵の内部分裂を誘うため、諸葛誕の軍にいた旧魏の将軍たちに対し、恩赦と帰順の呼びかけを行った。これにより、一部の将兵が投降し、諸葛誕軍は徐々に士気を失っていく。

特に、文欽とその子・文鴦は、司馬昭の策により疑心を抱かせられ、内部分裂の原因となった。文欽は諸葛誕と対立し、最終的には殺害されるに至る。これにより、諸葛誕軍の結束は大きく損なわれた。

寿春の籠城と終焉

司馬昭は、寿春を長期間包囲し、兵糧攻めに出る。寿春は堅固な城郭を持ち、諸葛誕も籠城戦に自信を持っていたが、呉からの援軍は思うように機能せず、物資の補給も困難を極めた。

包囲戦は数ヶ月に及び、寿春城内は飢餓と疫病に苦しめられる。将兵たちは次第に士気を喪失し、降伏を望む者が続出するが、諸葛誕はこれを許さず、反乱の徹底を命じた。

しかし、魏軍の圧力と内部分裂により、ついに寿春は陥落。諸葛誕は捕らえられ、司馬昭の命により処刑された。その遺族や配下たちも多くが処刑され、反乱軍は壊滅した。

反乱の影響と評価

諸葛誕の乱は、魏の内部抗争としては最大規模のものの一つであり、国内における反司馬勢力の最後の大規模な抵抗であった。これにより、司馬昭の地位は確固たるものとなり、魏の皇帝曹髦の権威は完全に失墜した。

反乱鎮圧後、司馬昭はその功績によって爵位を進め、やがて息子の司馬炎が晋を建国する礎を築くことになる。つまり、諸葛誕の乱は、魏の終焉と晋の成立を早めたという意味で、歴史的転換点となる出来事であった。

一方、諸葛誕個人については、その決断には義憤や忠誠心もあったと評価されることがある。司馬氏の専横に抗った正義の士と見る見方も存在するが、戦略的な詰めの甘さや人心掌握の失敗も指摘される。

終わりに

諸葛誕の乱は、三国志の終盤における一大事件であり、権力闘争が国家の命運を左右する典型的な事例である。その結末は、魏にとっての悲劇であると同時に、晋の勃興を告げる序章でもあった。個人の正義と国家の運命が交差するこの乱は、単なる反乱ではなく、三国時代を締めくくる重要なピースの一つと言えるだろう。

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