
胡車児――呂布配下の勇猛な武将
三国志の時代には数多くの武将が活躍し、その中でも特に戦場で名を馳せた者たちは後世まで語り継がれることとなった。その中の一人が、胡車児(こしゃじ)である。彼は呂布の配下として活躍し、特に武勇に秀でた武将の一人として知られる。しかし、史書において彼の事績は多くは語られておらず、彼が登場するのは『三国志』およびその注釈として知られる『三国志演義』の一部に限られる。
それでも、彼がどのような人物であったのか、どのように戦場で活躍したのかを知るために、史実と演義の両方を考察しながら見ていこう。
1. 胡車児の登場
胡車児が仕えていたのは、天下無双の猛将と称された呂布である。呂布はかつて董卓に仕えた後、反旗を翻して董卓を討ち、さらには曹操や劉備とも戦った武将である。その配下には、陳宮や高順といった知勇に優れた将がいたが、その中に胡車児の名も見られる。
『三国志』によると、胡車児は呂布の親衛隊に属していたと考えられており、呂布の側近として彼を護衛し、戦場では先鋒として戦う役割を担っていたようだ。特に呂布の軍は精鋭として知られ、「飛将軍」と呼ばれる呂布の俊敏な戦いぶりを支えるために、胡車児のような精鋭たちがいたとされる。
2. 下邳の戦い――胡車児の最期
胡車児が最も有名になるのは、呂布が曹操によって滅ぼされた「下邳の戦い」においてである。
2-1. 呂布の窮地
建安3年(198年)、呂布は下邳(現在の江蘇省徐州市)に拠点を構えていた。しかし、この地で彼は曹操の大軍に包囲されることになる。呂布は優れた騎馬戦術を誇ったが、下邳は水辺が多く、騎兵の機動力を生かしづらい地形であった。さらに、曹操は水攻めを行い、呂布の軍は窮地に追い込まれていった。
この時、胡車児は呂布の親衛隊の一員として、城の守備を担当していたと考えられる。彼の役割は、曹操軍の攻撃から呂布を守り、最後まで戦うことであった。
2-2. 裏切りと捕縛
曹操の包囲が厳しくなる中で、呂布軍の中には裏切り者が現れた。その筆頭が陳宮と侯成であり、彼らは曹操に通じて呂布を裏切ったとされる。
ここで『三国志演義』では、胡車児が決定的な役割を果たすことになる。演義によると、呂布は籠城戦に疲れ果て、楼閣の上で休んでいた。しかし、この時、彼の部下であった胡車児が彼を裏切ったのである。
胡車児は密かに呂布の弓を奪い、彼が武器を持たない状態にした。さらに、呂布の他の部下たちと共に彼を捕縛し、曹操に引き渡したのである。この瞬間、天下無双と称された呂布の運命は決定づけられた。
3. 胡車児のその後
呂布を曹操に引き渡した胡車児であったが、その後の彼の運命は定かではない。『三国志』には、彼の名がその後登場しないことから、呂布の死後に処刑された可能性が高い。
曹操は呂布を捕らえた後、彼を降伏させることも考えたが、劉備が「彼はかつて主を二度も裏切った男である」と進言し、最終的に処刑を決定した。この場面で胡車児の名前は出てこないものの、裏切り行為を働いた部下たちも同じく処刑された可能性がある。
『三国志演義』では、胡車児のその後についての記述はないが、呂布の忠実な部下としてはなく、むしろ彼を裏切った者として描かれている。曹操が呂布の処刑を決めた際、胡車児がどのような立場にいたのかは不明であるが、裏切り者として警戒され、処刑された可能性は十分に考えられる。
4. 胡車児の評価
胡車児の名は『三国志』においてはほとんど目立たないが、『三国志演義』では呂布を裏切る重要な役割を担う。彼は呂布の親衛隊の一員として勇敢に戦ったものの、最終的には主君を裏切る道を選んだ。
この裏切りをどのように評価するかは意見が分かれる。彼は曹操の大軍に包囲され、絶望的な状況の中で生き残る道を模索したのかもしれない。しかし、結果として天下無双の猛将であった呂布を失墜させた張本人の一人となった。
もし胡車児が呂布を裏切らなければ、呂布は曹操の前でどのように行動しただろうか。曹操が彼を重用する可能性は低かったものの、わずかながら生き延びる可能性はあったかもしれない。だが、胡車児が弓を奪い、彼を縛り上げたことで、呂布の最期は決定的なものとなった。
5. まとめ
胡車児は三国志の中で決して大きな役割を果たしたわけではない。しかし、彼の行動は呂布の運命を大きく変えるものだった。彼は勇猛な武将であったが、最終的には主君を裏切る道を選び、その後の運命は歴史の闇に消えた。
三国志の時代には多くの武将が活躍し、彼らの忠誠や裏切りが歴史を動かしてきた。胡車児もまた、その中の一人として、呂布の最期を決定づけた人物として語り継がれているのである。
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