
三国志における李厳の活躍とエピソード
李厳(りげん)は、蜀漢に仕えた政治家・軍人であり、蜀の統治や軍事において重要な役割を果たした人物である。彼は主に行政や補給面での活躍が目立つが、軍事面でも一定の影響力を持っていた。とりわけ、南中平定後の統治、街亭の戦いを巡る諸葛亮との確執、最終的に失脚するまでの経緯は、三国時代における彼の人生を象徴する出来事である。ここでは、彼の活躍を具体的なエピソードとともに詳しく見ていく。
1. 李厳の出自と仕官
李厳は荊州(現在の湖北省・湖南省付近)の出身であり、若いころから才能を認められた人物だった。彼は荊州の劉表に仕えていたとされるが、劉表の死後、荊州が曹操の手に落ちると、劉備に仕えることを決意した。劉備が蜀を平定する過程で、李厳はその行政手腕を買われ、益州の統治を任されることになる。
2. 南中平定後の統治
劉備の死後、蜀の国政は諸葛亮の手に委ねられた。この時期、蜀の南方(現在の雲南省や貴州省にあたる地域)は異民族(南蛮)の反乱が相次いでいた。諸葛亮はこれを平定するために自ら遠征を行い、南蛮王・孟獲を降伏させた。
南中平定後、諸葛亮はこの地域の統治を李厳に任せた。李厳は蜀の統治者として、この地の行政を安定させ、異民族との関係を円滑にする役割を担った。彼の統治は概ね成功し、南中の地はしばらくの間、蜀にとっての安定した経済基盤となった。この功績により、李厳は蜀の重鎮としての地位を確立していくことになる。
3. 街亭の戦いと李厳の責任問題
李厳にとって最も大きな転機となったのは、諸葛亮の第一次北伐(228年)における「街亭の戦い」であった。
この戦いでは、諸葛亮が魏の領土へ進軍するにあたり、馬謖(ばしょく)に要衝・街亭を守らせた。しかし、馬謖は軍令に背き、高台に布陣するという失策を犯し、魏の名将・張郃(ちょうこう)の奇襲を受けて敗北した。これにより蜀軍の北伐は失敗し、撤退を余儀なくされた。
李厳はこの作戦において兵站を担当していたが、街亭での敗戦後、諸葛亮に対して「食糧の供給が難しいため、撤退すべきだ」と進言した。しかし、後にこの発言が問題視されることになる。
4. 李厳の失脚
街亭の戦いの敗北後、諸葛亮は責任を取る形で馬謖を処刑したが、李厳にも責任を追及する動きが出た。
李厳は、撤退を進言した際に「食糧の供給ができなくなった」と報告していたが、実際には兵站が完全に途絶えていたわけではなかった。諸葛亮はこの点を問題視し、李厳の報告が誇張されたものであると判断した。つまり、李厳は「撤退を正当化するために事実を誇張したのではないか」と疑われたのである。
この結果、李厳は蜀の要職から追放され、事実上の失脚を余儀なくされた。最終的には地方に左遷され、歴史の表舞台から姿を消した。
5. 李厳の評価
李厳は優れた行政官であり、特に南中の統治においては大きな功績を残した。しかし、軍事面においては慎重すぎる一面があり、街亭の戦いでの対応が問題視されたことが彼の失脚につながった。
また、彼の言動には「自己保身を優先する傾向」があったとも言われている。街亭の戦いにおける食糧問題の誇張は、まさにその象徴的なエピソードであり、諸葛亮の軍事方針と相反する行動を取ったことが命取りとなった。
しかし、彼の行政手腕自体は優れており、もし軍事面ではなく行政官としての役割に専念していれば、より長く蜀に貢献できたかもしれない。
6. 李厳のその後と三国志における位置付け
李厳は失脚後、歴史の表舞台から姿を消した。その後の記録はほとんど残っておらず、彼がどのような晩年を過ごしたのかは定かではない。
三国志における李厳は、諸葛亮と対立した人物として記憶されることが多いが、彼の功績を考慮すれば「蜀の安定に貢献した有能な官吏」としての一面も見逃せない。彼の生涯は、三国時代の武将が戦功だけでなく、政治的な立ち回りによっても運命を左右されることを示す好例である。
7. まとめ
李厳の人生を振り返ると、彼は蜀の統治において重要な役割を果たしたものの、軍事面での失敗と諸葛亮との対立によって失脚する運命をたどった。
- 南中の統治 に成功し、蜀の経済基盤を支えた
- 街亭の戦い において、兵站の問題を誇張し、諸葛亮の信頼を失った
- 結果として失脚 し、歴史の表舞台から姿を消した
李厳の生涯は、三国時代における「軍事と政治のバランス」がいかに重要であったかを物語るものである。彼が諸葛亮と協力関係を維持できていれば、蜀の歴史はまた違ったものになっていたかもしれない。
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