
三国時代、蜀漢の丞相として君臨した諸葛亮(字・孔明)は、劉備の死後、その遺志を継いで漢室の復興を目指した。彼の国家運営は慎重かつ実務的であり、内政を整えつつ、魏に対する一連の北伐を主導する。なかでも建興九年(西暦231年)に行われた第三次北伐は、前二回の戦訓を活かした上で、さらに大規模かつ戦略的な展開を見せた戦役であった。本稿では、この第三次北伐について詳しく解説し、蜀漢の軍事的挑戦の本質に迫る。
北伐再開の背景――国力の充実と情勢の観察
建興六年(228年)の第一次北伐では街亭の敗戦により撤退を余儀なくされ、続く第二次北伐(229年)も陳倉城の攻略に失敗した。しかし、諸葛亮はこれらを単なる敗北と受け止めず、魏の軍制・地形・補給線の情報を得るための「探り戦」と位置づけていた。
その後、蜀漢国内では継続的な屯田と人材登用政策により、兵站と兵力が回復していく。諸葛亮は西方で南中を平定し、財政基盤を固め、再び北伐の準備に入る。彼は「伐を以て和を求め、攻を以て守を安んず」という姿勢を貫き、軍事行動を通じて国境の安定と外交的主導権の確保を狙っていた。
第三次北伐に際して、諸葛亮は再び祁山方面を進軍目標に定めた。祁山は前線での補給に有利で、地形的にも蜀軍が機動しやすい地域である。また、魏軍の根拠地である長安に近く、戦果次第では魏の西方防衛網に直接打撃を与えられる可能性があった。
兵力配置と戦略――分進合撃の布陣
この第三次北伐では、蜀軍は複数の軍団に分かれて行動し、各方面から同時に魏軍を圧迫する作戦がとられた。主力部隊は諸葛亮自身が率い、天水から祁山へ進軍。これに呼応して、陳式が武都から進撃を開始し、南方の要衝である武都・陰平を目指す。また、東方からは李厳が後方支援にあたり、補給線の維持を担う重要な役割を果たした。
魏の側では、司馬懿が都督に任命され、西方防衛の指揮を執ることになる。さらに張郃や郭淮など、精鋭の将軍たちが各地で蜀軍の侵攻に備えて布陣した。司馬懿は、諸葛亮の作戦に対して主に守勢に回り、蜀軍の動きを見極めつつ対応する慎重な戦術を選んだ。
寡兵の勝利――木門道の戦いと張郃の戦死
諸葛亮は今回の戦役で慎重な姿勢を崩さず、魏の守備陣を正面から突破するのではなく、じわじわと圧迫しながら兵糧線を断ち、敵の士気を削ぐ戦術を選んだ。一方、魏は蜀軍の進出に焦り、積極的に兵を繰り出して迎撃しようとする。
この時、特筆すべきは木門道(もくもんどう)の戦いである。蜀軍はこの要地に張郃率いる魏軍が進出してくることを予測し、伏兵を配置。張郃はこの地の地形の危険性を上奏していたが、司馬懿は強行を命じたと伝えられる。結果として張郃は蜀軍の伏兵に遭い、戦死することとなった。
張郃はかつて袁紹配下で武勇を誇った名将であり、その死は魏にとって大きな損失であった。司馬懿はこの結果に表立って責任を問われることはなかったが、後の軍事判断により慎重さを一層増すようになる。
兵站と内部の問題――李厳の失策と諸葛亮の決断
第三次北伐において、蜀軍は補給面で重大な問題に直面する。もともと蜀は地理的に閉鎖的であり、漢中から前線までの兵站線は長く困難を伴った。特に重要な任務を担っていたのが李厳であったが、彼は兵糧輸送の遅延を正直に報告せず、天候や他者のせいにして自らの責任を回避しようとした。
諸葛亮はこの報告に疑念を抱き、詳細な調査を行った結果、李厳の責任逃れが明るみに出た。この件により諸葛亮は李厳を厳しく弾劾し、職務を解き蜀に帰還させている。この処置は、たとえ高官であろうと職責を果たさない者には厳格に対処するという、諸葛亮の統治姿勢を如実に示すものである。
この兵站の問題により、前線での持久戦が困難となり、諸葛亮はやむなく軍を漢中へ撤退させることとなった。張郃の討死など局地的な戦果は得たものの、戦略的勝利には至らなかった。
結果とその意義――戦果なき勝利
第三次北伐は、魏の有力将張郃を討ち取った点では成果があったが、戦略目的である長安方面への進出や魏軍の撃破には至らなかった。兵站問題という蜀の構造的課題が露呈し、軍事行動の限界が明らかになった戦役でもあった。
それでも、この北伐は魏に対して大きな圧力をかけ、司馬懿をはじめとする魏の中枢に警戒感を与えた。張郃の戦死は魏軍の士気に影響を与え、蜀の北伐に一定の威圧効果を残したことは間違いない。また、諸葛亮の軍制改革や人事管理の厳格さは、蜀の戦力維持において重要な意味を持った。
この戦役の後、諸葛亮は次の北伐に向けてさらなる準備に取りかかることになる。そして、最終的に彼の北伐活動は第五次、すなわち五丈原での戦いへとつながっていくのである。
終わりに――第三次北伐の歴史的評価
第三次北伐は、戦略的には成果に乏しく、撤退という形で終わったものの、蜀漢の持久戦能力と諸葛亮の政治的手腕を象徴する戦いであった。魏に対する圧力を維持し、蜀漢の存在感を内外に示すことに成功したという意味で、外交・軍事の両面で一定の成果をあげたと評価される。
また、この北伐を通して、諸葛亮がただの智謀の士ではなく、現実的な軍政家であったことが改めて明らかとなる。彼の治軍の厳しさ、兵站管理の重視、人事の徹底など、現代的な戦略経営に通じる側面すら見て取れる。
第三次北伐――それは敗北の中にも規律と秩序を貫いた、諸葛亮という希代の丞相の粘り強さが輝いた戦いであった。
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