
中国三国時代、魏・蜀・呉の三国が覇権を争う中、魏国内部では次第に政情不安が顕著になっていった。その象徴的な事件の一つが「毌丘倹(かんきゅうけん)の乱」である。この反乱は、魏の重臣であった毌丘倹と文欽(ぶんきん)が主導したものであり、最終的には魏の司馬氏によって鎮圧された。毌丘倹の乱は、単なる一地方の反乱ではなく、司馬一族の台頭と魏の実権移行の一端を示す重要な事件である。本稿では、毌丘倹の乱に至る背景、反乱の経過、その後の影響について詳述していく。
1. 魏末の政情と司馬氏の台頭
三国時代の魏は、曹操によって実質的に基盤を築かれ、曹丕が皇帝として即位して正式に王朝が成立した。しかし、曹丕の死後、後継者である曹叡が即位すると、以後は幼少の皇帝が続くこととなり、重臣による政権の実権掌握が加速する。その中で特に頭角を現したのが司馬懿(しばい)である。
司馬懿は、元々は文官として仕えていたが、諸葛亮率いる蜀軍との戦いを通じて軍事的な才能を発揮し、次第に政権中枢へと食い込んでいく。司馬懿の死後、その息子である司馬師(しばし)、司馬昭(しばしょう)が後を継ぎ、魏の実権を掌握していく。魏の皇帝である曹芳や曹髦は名目上の存在に過ぎず、司馬一族による事実上の専制体制が築かれていった。
このような情勢に対して反発を抱いたのが、魏の一部の将軍や地方勢力であった。中でも、長年魏の西方防衛を担っていた重臣毌丘倹は、司馬師の専横に不満を募らせていた。
2. 毌丘倹と文欽 ──乱の中心人物
毌丘倹は、三国志の中でも優れた将軍として知られ、西域や西涼(現在の甘粛省など)の反乱鎮圧に大きな功績を上げた人物である。学識にも富み、礼法にも通じており、文武両道の名将として高い評価を受けていた。一方、文欽は揚州方面を管轄する武将で、これまた実力者であった。
毌丘倹と文欽の共通点は、共に司馬師に対して強い不満を抱いていた点にある。司馬師は、曹芳を廃位し、傀儡と目される曹髦を擁立するなど、魏王朝の皇統を軽視する行動を取っていた。これに対し、皇統の正統性を重んじる毌丘倹らは「司馬氏による簒奪」を懸念し、立ち上がる決意を固めた。
3. 反乱の勃発
毌丘倹と文欽は、255年、反乱の挙兵を行う。毌丘倹は西方(今の陝西省)から、文欽は南方の揚州(今の安徽省あたり)から挙兵し、司馬師を討ち、魏の皇統を正すことを旗印に掲げた。
彼らは、呉との連携も図ろうとしたが、呉からの支援は思うように得られなかった。また、魏国内でも、司馬師に反対する勢力をまとめきれず、当初から作戦には綻びが見られた。
司馬師は、即座に反乱鎮圧の軍を編成し、自らその総指揮を取って迎撃した。毌丘倹は寿春(安徽省)方面に向けて進軍するが、同地はすでに司馬師の軍が抑えており、補給路が断たれる形となった。
4. 反乱の終焉
司馬師の軍は、迅速かつ組織的な対応を見せ、反乱軍の補給線を断ちつつ、各個撃破を試みた。毌丘倹と文欽は合流して抵抗を続けたが、魏国内の支持が広がらず、戦局は次第に不利に傾いていく。
ついに、寿春近郊での戦闘において、毌丘倹は敗北し、部下によって殺害される。文欽もまた敗走し、呉に逃れた。これによって反乱は鎮圧され、司馬師の権力は一層強化されることとなった。
興味深いことに、この戦いの最中、司馬師は目の病を患っており、戦闘中に目が破裂して死亡したとも伝えられている。しかし、司馬師の死後も弟の司馬昭が後を継ぎ、司馬氏の支配体制に揺らぎはなかった。
5. 乱の影響とその後
毌丘倹の乱は、単なる一地方の反乱にとどまらず、魏王朝の実権が名実ともに司馬一族に移ったことを象徴する事件であった。この反乱の失敗により、魏国内で司馬氏に抵抗する勢力はほぼ壊滅し、名目的な魏の政権の背後にあった「皇統の正統性」へのこだわりは、完全に失われることとなった。
そしてこの乱から10年も経たないうちに、司馬昭の子である司馬炎(しばえん)が魏の皇帝・曹奐を廃し、自ら「晋」を建国することとなる(西晋の成立)。毌丘倹の反乱は、いわば「魏の終焉への前奏曲」であり、漢代以来続いてきた皇統主義が完全に幕を下ろすこととなる。
また、文欽の息子である文鴦(ぶんおう)は、後に魏に投降し、勇将として名を挙げた。このように、反乱を起こした者たちの子孫が再び歴史の表舞台に登場するのも、三国時代の興味深い点である。
結語
毌丘倹の乱は、魏末期における政争の一断面であり、同時に中国史における政権交代の典型的な過程を象徴している。正統を主張する者が敗れ、実力によって政権を掌握する者が勝利するという図式は、この後の中国王朝交代史においても繰り返されることになる。
毌丘倹と文欽は、理念に生きた忠臣であったのか、それとも現実を見誤った反逆者であったのか。その評価は今なお分かれるが、彼らの挙兵が時代の転換点となったことだけは間違いない。
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